建築界のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」を受賞し、フランスのルーヴル美術館の別館をも手掛け、世界の一流建築家の仲間入りをしている妹島和世さん。
過去、妹島和世さんの建築チームは新国立競技場の設計案を出し、審査会最終選考にも残っていましたね。
女性建築家として、確固たる地位を築いている彼女。「NHKアカデミア」に出演されます。
そんな妹島和世さんの両親はどんな人だったのでしょうか。
また、茨城にあると言われる妹島和世さんの実家について、調べてみたいと思います。
妹島和世さんのプロフィール
妹島和世+西沢立衛による建築ユニットSANAAが、国際的に権威ある建築賞を受賞。「シンプルで軽やか、そしてエレガントな作品で、建築界を席巻する新たなスタイルを構築した」と評価されています。
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— casabrutus (@CasaBRUTUS) February 21, 2025
名前:妹島 和世(せじまかずよ)
生年月日:1956年10月29日
出身:茨城県日立市
地元の小・中学校卒業後、茨城県立水戸第一高等学校へ進学。
日本女子大学家政学部住居学科卒業、その後同大学院家政学研究科住居学専攻修士課程修了。
伊藤豊雄建築設計事務所に在籍し、建築家として活動する。
1987年には独立し、妹島和世建築設計事務所を設立。
1995年、西沢立衛と共にSANAA設立。
吉岡賞、日本建築学会賞など数々の賞を受賞。
2010年には、日本人女性として初めてプリツカー賞を受賞。
2024年には文化功労者として表彰を受けている。
父は日立製作所の技術者だった!
妹島和世さんのお父様は、「大阪大出身の溶接エンジニア」だそうです。
「女性は働いた方がいい」という考えの方だったそうで。
それから父は日立製作所の技術者だったんですけど、父も、女の人も働いた方がいいという考えでした。
ですから「和世」という名前も、社会に出た時に、男か女かわからないように、という意図があったらしいんですよ。小さい時に聞いたので、私の記憶が正しければですけれど。クラブウィルビー記事よりhttps://www.club-willbe.jp/interview/20181025_a.html
現在はお亡くなりになっていらっしゃいます。
当時「日立製作所日立工場」で、妹島和世さんのお父様にお世話になったとおっしゃる方のコメントも見つけました。
素敵なお人柄の方だったのでしょうね。↓
バイタリティ溢れる努力家の母
妹島和世さんのお母様も、頭脳明晰で、社会の本質を見抜く目をお持ちの方だったようです。
母が、女性でも(仕事は)何かやれた方がいいんじゃないか、という考えでしたね。
うちの母は戦争とかがありましたから、自分があまり社会に出て行けなかったことを残念に思っていました。(妹島さんのお母様は)仕事としてはしていませんでしたが、いろいろやっていましたね。
大学にも行っていないのに、裁判官か何かの試験に独学で合格してたんです。結局、それは結婚したのでやらなかったんですが、結婚後は病院ボランティアを立ち上げたり、まだボランティアなんていう言葉もない時代に、自分で始めたんです。何十年か続けたことで表彰されてもいました。
その他にも福祉関係や、カウンセリングなんかも自分で勉強して。英語も1年間、学校に通ってましたし、まあ、努力家でしたね。
専業主婦だったお母様ですが、独学で勉強した英語は、妹島さんよりもお上手だったという話もあります。
この「お母様」、小笠原家(かつての日本の氏族のひとつ)のご出身だそう。
小笠原家についてはこちらが詳しいです。↓

このサイトの中で、飯田市伊豆木にある小笠原資料館は、妹島和世さん(SANAA)が設計なさったという話も出てきています。
その際、設計を妹島和世さんに勧めたのは、お母様だったようです。
妹島さんのお母さんが小笠原家ご当主の娘。資料館建設の話が出た時に、お母さんが妹島さんに「あなたがやりなさい!」とプッシュしたそうです。
SANAA 英建築の最高賞に輝く 小笠原資料館25周年特別企画展 @minamishinshu より
https://t.co/Bl9nY5Ex4d— 建築情報 (@kenchiku_zyoho) February 15, 2025
実家は茨城の日立にある、日立製作所社宅
お父様が日立製作所の技術者だったことから、幼少期~高校卒業まで、日立市で育った妹島和世さん。日立製作所の社宅だったそうですよ。
現在、日立製作所の社宅として検索して出てくるのはここ。
傍に「日立市立助川小学校」(妹島さんの出身小学校)があるので、ここの可能性が高いです。
高校は、茨城でも偏差値の高い「水戸第一高等学校」に日立駅から通っていたそうです。
当時、この旧日立駅のプラットホームからは、潮の香りがする程海が近いのに太平洋がまったく見えなかったそうで、ずっと残念に思っていたそう。
その思いが、のちに日立駅を設計する際に生かされ、形になったものが、こちら。↓
【イマのひたちえき】
10年前、「どこまでも際限なく広がる日立の海と空と人々の生活を繋ぐ空間、人の心を豊かに、楽しめる空間」として、美しい橋上駅舎の新生日立駅が誕生しました。
※ぷらっとひたちでは写真展「むかしのひたちえき」を8/31まで開催しています。https://t.co/u8de26o60t pic.twitter.com/ImRpTnljmw— 日立市【公式】 (@HitachiCityKoho) August 20, 2021
妹島和世さんのルーツは・・・
妹島和世さんが最初に建築に興味をもったきっかけとしてあげているのが、菊竹清訓さんの「スカイハウス」。
お母様が読んでいた雑誌「婦人の友」に載っていた写真を見て、「これが家か」と衝撃を受けたそう。
妹島和世さんは、大学院卒業後、菊竹清訓さんの弟子でもある建築家・伊東豊雄さんの設計事務所に入っていることからも、幼少の頃目にしたこの「スカイハウス」の存在は大きいのではないでしょうか。
菊竹清訓「スカイハウス」の様子↓
菊竹清訓の「スカイハウス」 “全員が対等”という家族観が生んだ「メタボリズム」の出発点~愛の名住宅図鑑17「スカイハウス」(1958年) | 住まいの本当と今を伝える情報サイト【LIFULL HOME’S PRESS】 https://t.co/wcSxHTeK3k
— 建築情報 (@kenchiku_zyoho) January 29, 2025
まとめ
いかがだったでしょうか。
今回は、日本を代表する建築家・妹島和世さんのご両親はどんな人だったのか、また妹島さんの実家やそのルーツについても調べてみました。
・お父様もお母様も、「女であっても、仕事をしっかりと持ち、社会で生きていける力をつけること」を大切にしていた。
・素敵な人柄のお父様、力のある頭脳明晰なお母様だった。
・実家は日立製作所の社宅であり、幼い時に見た菊竹清訓さんの「スカイハウス」が妹島和世さんのルーツともいえる建築。
以上のことがわかりました。
妹島和世さんの建築は、自分と周囲の環境を一体化させてくれるような、不思議な魅力がありますね。
日立駅、行ってみたいです!
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